祖母の家には、子どもの頃から一つだけ妙な決まりがあった。
仏間の襖を閉めてはいけない。
昼でも夜でも、誰もいなくても、必ず左右いっぱいまで開けておく。
夏に冷房をつけているときも、冬にストーブを焚いているときも、仏間だけは開けっぱなしだった。
子どもの頃、一度だけ祖母に理由を聞いたことがある。
「なんでここだけ閉めちゃだめなの?」
祖母は仏間を見てから言った。
「閉められるのが嫌いな人がいるんだよ」
「誰?」
「昔からいる人」
それ以上聞いても教えてくれなかった。
当時の私は、祖母が子どもを怖がらせるために言っているのだと思っていた。
ただ、一つだけ妙だったことを覚えている。
仏壇の前に、いつも古い座布団が一枚置かれていた。
仏壇から少し離れたところに。
しかも、向きが逆だった。
そこに座ると仏壇に背を向け、廊下を見ることになる。
誰が使うのか聞いたこともあった。
そのとき祖母は、
「それは座らない方がいいよ」
とだけ言った。
祖母が亡くなったのは、去年の十一月だった。
八十八歳だった。
葬儀と四十九日を終え、春になってから家を処分することになった。
山間の小さな集落にある古い家だった。
父はすでに亡くなっており、叔父も遠方に住んでいる。
結局、私と二つ下の妹が、週末を使って遺品整理をすることになった。
家に着いたのは金曜日の夕方だった。
三月の終わりだったが、山の陰にはまだ雪が残っていた。
玄関を開ける。
畳と古い木の匂いがした。
電気をつけると、廊下の一番奥に仏間が見えた。
襖は開いていた。
その奥に黒い仏壇がある。
そして、あの座布団も残っていた。
「まだあるんだ」
思わず口にした。
妹が後ろから覗き込んだ。
「何が?」
「あの座布団」
「普通の座布団じゃん」
「ばあちゃん、絶対座るなって言ってたんだよ」
妹は笑った。
「何それ」
私は座布団を見た。
昔と同じだった。
仏壇に背を向けて、廊下の方を向いている。
気味が悪くなって、
「捨てるか」
と言った。
すると妹が、
「今日はやめとけば」
と言った。
「なんで?」
「なんとなく」
妹はそう言って台所へ行った。
その日は夕方から二人で片付けを始めた。
食器や衣類を分別して、不要なものを段ボールに詰めた。
古い家だから、とにかく物が多い。
気づけば夜九時を過ぎていた。
持ってきた弁当を食べて、風呂を済ませた。
妹は二階で寝ることになった。
私は一階の居間に布団を敷いた。
居間からは廊下が見える。
その先に仏間がある。
襖が全開なので、布団からでも黒い仏壇と座布団が見えた。
妹が階段へ向かう途中で立ち止まった。
「ねえ」
「何?」
「これ、閉めない?」
仏間を指していた。
「ばあちゃんが閉めるなって言ってただろ」
「でも、ずっと見えてる方が嫌じゃない?」
確かにそうだった。
明かりを消せば、暗い仏間が廊下の奥にぽっかり開いたままになる。
妹が襖に手をかけた。
「まあ、もういいでしょ」
少し迷った。
祖母はもういない。
ただの昔の言いつけだ。
「そうだな」
妹が片側の襖を引いた。
そのとき、
家の固定電話が鳴った。
二人とも動きを止めた。
居間の隅にある古い電話だった。
祖母が亡くなったあと、回線は解約したと聞いていた。
一回。
二回。
三回。
妹が襖から手を離した。
電話は五回鳴って止まった。
「まだ繋がってるの?」
「いや。解約したって叔父さんが言ってたけど」
受話器を上げてみた。
何も聞こえなかった。
発信音すらしない。
「壊れてるんじゃない?」
妹はそう言った。
私もそう思うことにした。
仏間を見る。
襖は半分だけ閉じていた。
「どうする?」
妹が聞いた。
なぜか、そのままにするのが嫌だった。
中途半端に閉じている方が気味が悪い。
「もう閉めよう」
左右の襖を引いた。
仏間が完全に見えなくなった。
その夜。
何時だったのか分からない。
音で目が覚めた。
ザッ。
畳を擦るような音だった。
目を開ける。
暗い居間。
廊下の照明だけがついている。
ザッ。
また聞こえた。
仏間の方からだった。
身体を起こした。
閉じた襖を見る。
何もない。
ザッ。
今度は、襖のすぐ向こうから聞こえた。
誰かが畳の上を動いている。
私は布団から出た。
「妹?」
小さな声で呼んだ。
返事はない。
襖の前まで行った。
耳を澄ませる。
静かだった。
気のせいかもしれない。
そう思ったとき、
襖の向こうで、
ギッ、
と畳が鳴った。
すぐ目の前に誰かが立ったような音だった。
私は後ずさった。
襖の取っ手に、影が落ちた。
人の手の影だった。
向こう側から手をかけている。
襖が、数センチ開いた。
私は息を止めた。
隙間は真っ暗だった。
その暗闇の中から、
女の目だけがこちらを見ていた。
私は声を上げて後ろへ転んだ。
襖がゆっくり開いていく。
女がいた。
白っぽい着物を着ていた。
長い髪。
裸足。
異様に白い顔。
女は襖の向こうに立っていた。
ただ、私を見ている。
そして女が一歩、廊下へ出た。
ザッ。
さっきから聞こえていた音だった。
もう一歩。
ザッ。
私は立ち上がって玄関へ走った。
後ろから、
ザッ。
ザッ。
音がついてくる。
玄関の引き戸を開け、外へ飛び出した。
靴も履いていなかった。
庭の砂利で足の裏が痛んだ。
それでも家から離れた。
二階を見る。
妹の部屋は暗い。
「おい!」
大声で呼んだ。
返事がない。
「起きろ!」
二階の明かりがついた。
窓が開いた。
妹が顔を出した。
「何?」
「そこから動くな!」
「は?」
「部屋から出るな!」
妹はしばらく私を見ていた。
「何言ってんの?」
「女がいる」
自分で言っていて意味が分からなかった。
妹の表情が変わった。
「……女?」
そのときだった。
妹が私ではなく、自分の部屋の中を見た。
「どうした?」
妹は答えなかった。
「おい」
ゆっくり窓から離れていく。
そして窓が閉まった。
「おい!」
私は家へ戻った。
玄関を開け、階段を駆け上がった。
妹の部屋のドアは閉まっていた。
「開けろ!」
返事がない。
ドアノブを回した。
鍵はかかっていない。
扉を開ける。
妹はベッドの上で壁に背中をつけていた。
泣いていた。
「どうした」
妹は部屋の隅を指した。
そこには誰もいなかった。
「いた」
「誰が」
「女」
妹は震えていた。
「そこに座ってた」
「どこ」
「椅子」
机の前にある椅子だった。
「私が窓からあんたと話してたら、後ろで音がした」
「何の音?」
妹が答えた。
「ザッて」
私は何も言えなかった。
「振り返ったら、知らない女が座ってた」
妹は泣きながら続けた。
「こっち見てた」
その夜は車の中で過ごした。
夜が明けるまで家には戻らなかった。
翌朝、集落に住んでいる祖母の妹の家を訪ねた。
事情を話した。
話を聞き終えると、彼女は最初に、
「襖、閉めたの?」
と聞いた。
「閉めました」
「全部?」
「はい」
顔色が変わった。
「なんで閉めたの」
「ばあちゃんが閉めるなって言ってたのは知ってます。でも、まさか本当に……」
「姉ちゃん、理由を話してなかったの?」
私は首を振った。
祖母の妹は長い間黙っていた。
それから、
「もう家を売るんだから、話してもいいか」
と言った。
祖母の家が建つよりずっと前。
同じ土地に、別の家があったという。
大きな農家だったらしい。
その家の裏に、小さな離れがあった。
そこに女が一人、住まわされていた。
「誰だったんですか」
「分からない」
昔から話がバラバラなのだという。
病気だったという人もいた。
気が触れていたという話もあった。
家の主人が外から連れてきた女だったとも言われていた。
ただ、一つだけ、どの話にも共通していた。
女は離れから出ることを許されていなかった。
戸には外から閂がかけられていた。
「ずっと?」
「そう聞いてる」
ある冬の夜、その家で火事が起きた。
母屋はほとんど焼けた。
離れにも火が回った。
家族は逃げた。
女がどうなったのかは分からない。
焼け跡から、女の遺体は見つからなかったという。
それから、その土地では妙な話が出るようになった。
誰もいない納屋の戸を閉めると、中から叩く音がする。
空き家に鍵をかけた翌朝、内側から戸が開いている。
閉め切った部屋に、知らない女が座っている。
「それが、あの女?」
「分からないよ」
祖母の妹は言った。
「でも、姉ちゃんはそう思ってた」
やがてその土地に、祖母の家が建った。
祖母がまだ子どもの頃だった。
家が完成して間もなく、仏間に女が現れるようになった。
最初に見たのは祖母の母親だった。
仏壇に背を向け、畳の上に女が正座していた。
叫んで家族を呼んだときには消えていた。
それから何度も現れた。
必ず同じ場所。
必ず廊下の方を向いて座っていた。
ある日、祖母の母親がその場所に座布団を置いた。
理由は誰にも分からない。
怖かったからなのか。
哀れに思ったからなのか。
その日から女は、その座布団の上にしか現れなくなった。
「じゃあ、あの座布団は……」
「そのためのものだよ」
子どもの頃から何度も見た、仏壇と逆向きの座布団。
祖母が一度も捨てなかった理由が、ようやく分かった。
「でも、なんで襖を開けておくんですか」
祖母の妹は私を見た。
「閉められると、出てくるから」
昨夜の女を思い出した。
「仏間から?」
「うん」
「それだけ?」
祖母の妹は黙った。
「まだ何かあるんですか」
「私らには、姉がいたんだよ」
初めて聞く話だった。
祖母より三歳上の姉。
祖母が九歳の頃だったという。
姉は女を怖がっていた。
特に夜、廊下の先に女が座っているのを見るのが嫌だった。
ある晩、姉は仏間の襖を閉めた。
祖母が何度止めても聞かなかった。
「見えなければいいでしょ」
そう言って、完全に閉めた。
その夜。
姉がいなくなった。
家中を探した。
近所も探した。
警察にも届けた。
見つからなかった。
靴は玄関に残っていた。
窓も全部閉まっていた。
それなのに、姉だけが家から消えていた。
「その次の日から、姉ちゃんは絶対に襖を閉めなくなった」
「女は?」
祖母の妹はしばらく答えなかった。
「三日くらい、出なかった」
「それから?」
「戻ってきたよ」
「仏間に?」
頷いた。
「同じ座布団に座ってた」
そして小さな声で続けた。
「でも、前と顔が違ってた」
嫌な予感がした。
「どう違ったんですか」
「姉に似てた」
部屋が静かになった。
私は妹を見た。
妹も私を見ていた。
「それって……」
「分からない」
祖母の妹は遮った。
「姉ちゃんがあの女になったのか、あの女が姉ちゃんの顔を覚えたのか、それも分からない」
「ばあちゃんは、その女をずっと見てたんですか」
「たまにね」
「怖くなかったの?」
祖母の妹は少し考えた。
「怖かったと思うよ」
そして、
「でも、そこに座ってるうちは大丈夫だって言ってた」
と言った。
その言葉で、祖母が何十年も守っていたことの意味が分かった。
女を追い払ったわけではない。
封印したわけでもない。
ただ、
そこに座らせていた。
閉じ込めず。
追い出さず。
家の中に出てこないように。
私たちはすぐ祖母の家へ戻った。
玄関は昨夜飛び出したときのまま、少し開いていた。
家に入る。
廊下の奥を見る。
仏間の襖は開いていた。
昨夜、女が自分で開けたままだった。
座布団もある。
女はいない。
祖母の妹は仏間の前まで行った。
座布団の位置を少し直した。
廊下の方へ、まっすぐ向けた。
「これでいい」
「本当に?」
「分からない」
その答えが一番怖かった。
その日は遺品整理をやめた。
家の処分についても事情を説明し、最終的には取り壊すことになった。
解体の日まで、仏間の襖だけは開けておいてもらった。
座布団にも触らないよう頼んだ。
家がなくなったのは、それから二ヶ月後だった。
解体業者からは何も言われなかった。
私も妹も、あの女を見ることはなかった。
祖母の妹にも確認した。
何も起きていないという。
それで終わったと思った。
ただ、一つだけ気になっていた。
祖母の家を取り壊したら、
あの女はどこに行くのだろう。
妹に話すと、
「もう考えるのやめよう」
と言われた。
私もそうした。
それから半年ほど経った。
先週、妹の家へ遊びに行った。
妹は一人暮らしをしている。
夕方に着いて、リビングで二時間ほど話をした。
途中、妹が夕食を作り始めた。
私はテレビを見ていた。
ふと気づいた。
リビングのドアが開けっぱなしになっている。
廊下から冷たい空気が入ってくる。
「ドア閉めていい?」
台所にいる妹に聞いた。
「うん」
立ち上がってドアに手をかけた。
閉めようとしたとき、
「閉めないで」
声がした。
振り返った。
妹がダイニングの椅子に座っていた。
さっきまで台所にいたはずだった。
「寒いだろ」
「そのままでいい」
妹は私を見ていた。
少し変だった。
座り方が妙にきれいだった。
背筋を伸ばして、
両手を膝に置いている。
「どうした?」
「何が?」
「いや……」
そのとき、台所から音がした。
包丁で何かを切る音だった。
トン。
トン。
トン。
私は台所を見た。
妹が立っていた。
背中を向けて料理をしている。
頭が理解するまで、数秒かかった。
ゆっくり、
椅子の方を見た。
誰も座っていなかった。
椅子だけがあった。
私は立ったまま動けなかった。
台所の妹が振り返った。
「どうしたの?」
私は答えられなかった。
「ねえ」
妹がこちらへ来た。
「顔真っ青だけど」
私は椅子を指した。
「今、そこにいた」
「誰が?」
言えなかった。
妹が椅子を見る。
しばらく黙っていた。
そして、
「……ドア」
と言った。
「何?」
妹の顔から血の気が引いていた。
「閉めた?」
私は首を振った。
開いたままだった。
妹は何も言わず、ドアから離れた。
その日は泊まらずに帰った。
帰る前、玄関で靴を履いていると、妹が小さな声で言った。
「ねえ」
「何?」
「さっきの女、どんな顔だった?」
「ちゃんとは見てない」
「私に似てた?」
私は答えなかった。
妹も、それ以上聞かなかった。
それから毎日、妹とは連絡を取っている。
今のところ何も起きていない。
ただ、昨日の夜。
妹から写真が一枚送られてきた。
リビングを撮った写真だった。
誰も写っていない。
ドアは開いている。
その正面に、
あの椅子が置かれていた。
妹から続けてメッセージが来た。
「これ、私ここに置いてない」
その数秒後。
もう一通届いた。
「今、閉めてもいいと思う?」
まだ返信できていない。
制作情報
生成AI:ChatGPT
モデル:GPT-5.6 Sol
制作:2026年9月
カテゴリー:怪異・幽霊
タグ:ChatGPT
※本作品は生成AIによって制作されたフィクションです。

コメント